
History
小学時代
1993-1999
1993年Jリーグ開幕の年に小学1年生でサッカーを始める。
友達に誘われて、京都暁フットボールクラブ(土日の週2回)でプレー。
持ち前のシャイさを発揮して初めは嫌々通うも、
意外とサッカー上手かったので上手く馴染めていった。
地域(下中)選抜に選ばれるも、京都府選抜には入れず止まり。
中学時代
1999-2001
地元京都の桂川中学校へ通い、
京都紫光クラブジュニアユース(中学3年間)に所属してプレー。
特に選抜に選ばれることもなく、週3〜4回の練習で空いてる時は中学校の部活でもサッカーの練習。
高校時代
2001-2003
その後、家が近い公立高校という理由で勉強入試で合格して
京都府立桂高校へ進学。
チャリで家から5分という近さ。
阪急沿線の桂駅を通る電車から校舎とグランドが見えます。
ここで平井先生の教えの元、サッカーのイロハ、自分の原点となるサッカーを学ぶ。
高校2年時には桂高校としては約50年ぶりに高校選手権の京都予選の決勝戦へ。
しかし京都朝鮮に延長後半ロスタイムに点を取られて1−2で全国へは行けず。(京都朝鮮は全国大会初出場)
3年時。京都国体に選出される。
たまたま平井先生が京都国体の監督を務めることになり、ついでに選ばれる。
武岡優斗、渡邉将基、一つ下の児玉剛も同チームでプレー。
洛南高校のGK東口(現ガンバ、日本代表)はこの時全く選考にも入らず、先に何が起こるかなんて分からんね。僕はその先にタイで7年もプレーすることにもなるしね。
関西予選をきっちり突破して、全国出場。
そしてきっちり一回戦島根県選抜に敗れおしまい。
大学時代
2003-2007
京都選抜での活躍が認められ、京都産業大学サッカー部にスポーツ推薦で進学。(成績基準値がありギリギリでした・・・勉強はしっかりしときましょう。。)
監督は本並健二氏
京産大は入学前は関西リーグ1部でしたが、その年に2部降格。
入学時は関西2部スタート。
楽しくもあり、厳しくもある1年間の強制寮生活。
2年時、京産大1部昇格。
そこから卒業まで関西1部で戦い、最後は当時の最高順位6位やったかな?!
学業の単位は4年時の前期で全て取り終え、ウイイレに明け暮れる。
企業就活はせず、サッカーで蹴活。
プロ3チーム練習参加させてもらうも受からず (普通に実力不足)・・・
社会人(JFL)時代
2008-2009
京都佐川印刷サッカー部のセレクションを受けて、見事合格。
京都出身ということ、元々繋がりがある総監督ってことも大きかったかもです。
カテゴリーはJFL。
当時はJ1、J2までしかなく、その下のアマチュアリーグでしたが、レベルは非常に高かったです。
どちらかといえば若手主体の今のJ3よりは全体的なレベルはおそらく高かったと思います。
佐川印刷サッカー部は社員扱いだったので仕事もやりました。
朝9時~11時、亀岡で練習→移動30分→本社(向日市)→昼飯→13時出社→17時半(定時)〜仕事が終わるまで。
本当に遅い時は23時終わりみたいなことも、、
練習の時間によっては遅くなったり、自主練もやったりで、昼飯は掻き込み、5分でも寝れたら寝る(じゃないと午後から意識が飛ぶ)。
そんな中でも週2回の筋トレはぶっ込んでたし、言い訳せずにやろうと思えばその生活も出来る。
でも僕は2年で限界でした。。
プロになりたい、もっとサッカーに専念出来る環境に身をおきたいと退社を決意。
ちなみにJFLリーグは2年間全試合フル出場、1年目は初の一桁順位9位、2年目の2010年シーズンは佐川印刷の当時の最高順位6位でフィニッシュ。
国体は京都府代表(佐川印刷SC)で全国大会に出場。
1年目準優勝、2年目は2回戦敗退と絶対優勝必須の中、勝ちきれず。
タイ・チョンブリFCでプロサッカー選手
2010-2014
佐川印刷を退社したはいいが、行くあてがあったわけではない。
その時にたまたま同じタイミングで退社した樋口大輝が、
当時チョンブリFCの監督をしていたヴィタヤ・ラオハクルとの繋がりがあり、タイへ挑戦しに行くと。
中盤の選手も探してるから、クシダも行くか?と声をかけられ
二つ返事で行きます!と言って、当時は何の情報もなかったが、前年にチョンブリFCはACLに出場していたということは聞きました。
ACLに出れるチャンスもあるのか、一発逆転やないか!
ということだけやったし、給料がいくらとか、リーグに何チームあるとか、なーーーにも分からず出国。
タイってどこにあるの?タイ語?
まぁ行ったら何とかなるか!ってね。
当時2010年はスマホも普及してないし、チョンブリがどこにあるのか、この人は誰なんだ。ってことしかない。
そこで用意されたチョンブリの寮に入れられ、トライアウトが始まりました。
流れに身を任せ、ツメツメのワゴン車で、日替わりのように知らない外国人選手と共に練習場まで行ったはいいが、着替える場所もない、グランドもボコボコ、あれ、なんか全体的に体が小さくないか・・・
のちのち知ったのですが、それはチョンブリアカデミーの若手選手ばっかりやったみたいです。笑
トップの選手は休み期間で一緒に練習はせず、僕と樋口選手は2週間生き残り、試合には絡めそうにない若手達にパフォーマンスを魅せて見事合格。なんやそれ。笑
樋口選手と共にプロ生活をスタート・・・
って契約書はまだ?笑
もうチョンブリでプレーしていいよ!って言われてから、一度日本へ帰って、移籍の準備をしてすぐにタイへ戻り・・・
そこから契約書がきてサインしたのはその1ヶ月後くらいやった気がする。
当時のチョンブリは練習も時間通り始まらない、練習に平気で遅刻してくる、今日こうへんのかーい。って感じでゆるゆる。
今日これよろしく!
3日後、あれまだ?
あー!今からやるわ!
1週間後・・・あれまだ?
あっ、ごめんごめん、明日やるわ!
って日本でしか生活したことがなかった僕にとってはアメージングな体験の数々でした。笑
しかし、それがタイの当時のスタンダードでした。
チョンブリFCはそこから4シーズン在籍。
2011 2位 、2012 2位 、 2013 3位 、2014 2位
AFC CUP (ACLの下の大会) 2011 ベスト8、2012 ベスト4敗退
ACLプレーオフ 2012 浦項スティーラーズに0−2
2014 北京国安0-4敗戦で本選には出場出来ず。
2011年 タイプレミアリーグベスト11
2012年 年間最優秀MF賞
(当時)リーグ戦50試合連続フル出場記録更新(現在は詳細不明)
前十字靭帯断裂
2014-2015
2014シーズンの最後の方に前十字靭帯を断裂して戦線を離脱しました。チョンブリFCはリーグ優勝の可能性も残してたし、カップ戦も決勝まで駒を進めてたのでもってないです。
手術は日本でしました。
地元京都で膝の手術で有名な原先生という方がおられたので、そこで診察&手術もしてもらいました。
人生で初のメスを入れた大怪我でした。
普通に歩けることがこんなにも有難いことなんだと気付かされましたね。
当たり前は当たり前ではないなと。
リハビリはキツイちゃーキツイけど、元々筋トレで追い込めるようなタイプなので、その箇所が変わるだけってのもあるかな。
その間もちろんサッカーは出来ひんし、1日でも早く復帰を目指してました。
約2ヶ月間リハビリをした後に、タイへ戻りました。
2ヶ月くらい経つとジョギングも出来るようになるので、それならグラウンドや環境も揃ってるチョンブリでリハビリしようかなと。
契約上はチョンブリFCに所属してる訳ではないですが、なんとチョンブリFCは復帰するまでの間、給料を入れてくれてました。
はっきり言うてタイの中で、そんな待遇をしてくれるのは限られた人間だけだと思います。
普通は大怪我したら速攻登録外になり、契約上支払われるはずの給料は払われないってことがザラにありました。
それが2015年の1月から5月頃までですね。
そして約6ヶ月で復帰へ
チャイナート・ホーンビルFCへ移籍
2015
タイリーグは前期と後期の2回移籍期間があります。
僕が復帰を目指していたのは、5月頃の後期の移籍期間です。
本音を言えば、2014シーズン(怪我前から)タイはもう出ようと思ってました。
しかし、怪我からの復帰のサポートもあり、チョンブリFCの恩もあるし、正直前十字靭帯をやった後にすぐ環境の違う国(施設が整ってるとも限らない)でプレーするのは怖さもありました。
しかし、この後期のタイミングではチョンブリFC自体もリスクがあるし、外国人も枠が埋まっていたので変えることは出来ないと。
そのタイミングでチャイナートと言う、タイ1部のクラブが声をかけてきてくれました。
それも怪我明けの僕にとってはかなりの好条件でした。
なので迷わず行きます!ってことですぐに移籍が実現しました!
まず、すぐにあったカップ戦に出場していきなり2ゴール!
チャイナートは1部の下位の順位でしたが、施設は非常に充実していて(当時)選手も良いメンバーが揃っていました。
順調に復帰を果たしたと思った矢先・・・
2度目の前十字靭帯断裂
2015
チャイナートに移籍して約2ヶ月が経ち、ある日の練習試合。
途中出場で出て、ターンをした時に膝がグリっと・・・
一度やっているので、これはやったなと思いました。
その場で交代して、覚悟してた通り病院でMRIを撮った結果、
2度目の前十字靭帯断裂でした。
これは自分自身のことよりも、チャイナートというクラブに対して非常に申し訳ないことをしたなと今でも思っています。
まぁ仕方がないといえばそうなんですが、めちゃめちゃ良くしてくれたし、給料面を考えても期待もしてくれてたはずです。
それもシーズン終盤ならまだしも、これからって時にね・・・
てことで約8ヶ月で京都の病院に出戻り。
おかえりーって。おかしいけど、確かに。。笑
日本最高施設JISSでリハビリ
2016
一つは復帰を急ぎすぎた、一つはリハビリが良くなかったのか。色んな要素はあるやろうけど、次は違う施設でリハビリをやりたいと思い、色んな方々の協力の元、日本最高施設のJISS(東京・赤羽)でリハビリをやらしてもらえることになりました。
実は、この施設は誰もが入れる施設ではありません。
基本的には日の丸を背負ってる選手達のようなレベルの人だけです。サッカーでいえば少なくともJリーガーでないとノーが出ます。
ではなぜ、Jリーガーでもない僕が入れかというと
JFAのアジア戦略室に関わる方々が協力してくれました。
今でこそ、チャナティップやティーラトンが日本でプレーして活躍してますが、ようやくアジア戦略が実った形の一つだと思います。
その前からずーっと日本とタイを繋ぐ活動をされてたし、僕自身はタイで活躍する日本人として少しは貢献してた一人だったのかなと。
チョンブリでは常に上位争いしてたし、ティ-ラトン、ティーラシンとカウィンなんかはブリラム、ムアントン、チョンブリのライバルクラブで良くアツイ試合(だいたいこの戦いはスタジアムマックス入りました)してました。
チャナティップはまだまだ若すぎましたが、片鱗はありました。(所属してたBECテロは中位クラブでした)
そんな裏の経緯や、あらゆる繋がりのお陰で、最高のリハビリをすることが出来ました。
本当にテレビで見てた人達がいっぱいで、その意識の高い人達と共にリハビリするって、サボれる訳ないやん。笑
めちゃめちゃキツかったですけどね。
毎日が筋肉痛との戦い。笑
特に重点的に鍛えたのはケツです!!
前十字靭帯で検索すると、ケツトレもあるけど、大腿四頭筋(太ももの前)を鍛えなさい。みたいな記事も多い気がする。
実際大腿四頭筋も鍛えるんですが、メインはケツでした。
どちらかといえば、1回目のリハビリは大腿四頭筋にフォーカスしたリハビリ(それが悪いとは思わんが)
この2回目のJISSのリハビリでケツを重点的に鍛えることによって、安定感が増した気がするし、最終的にパスなんかも強く蹴れるようになった気がします。
ケツで押し出せる感覚。
なので今でもケツトレは自分の筋トレメニューに入れてます。
あとは本当に素晴らしい出会いもあったし、タイでプレーしてるって面白さは少しはあったと思うのでみんな仲良くしてくれました。笑
怪我したけど、得をした気分です。
ここまで読んでくれた人は薄々気づいてるかもですが、
僕って運が良いんです。笑
ほんと、いつも良いタイミングで良い方向に進むんですねー。笑
チャイナートで2度目の復帰、契約
2016
本当にチャイナートには頭が上がりません。
ていうのも怪我をしたあとも、契約通りに給料を払い続けてくれてました。
チョンブリの時にも書きましたが、これはタイでは当たり前ではないです。
しかも決して安くはない給料です!
しかも僕は4ヶ月間くらいJISSに住み込みでリハビリしていたので、実際日本でどういうリハビリをしてるなんて報告も一回もしてないし、JISSに通ってるのは今でこそ書いてますが、その時は他にそういう選手から連絡がきても困るので、内緒でお願いします。って感じだったので、公には一切載せてないです。
なのでこれを読んで、裏の繋がりでJISS行けるかも!?って思った人は、まぁ無理です。
普通はもうそのレベルにいる人が行く(行ける)ところです。
それでも給料を払い続けてくれてた。
そらもうチャイナートに恩返しするしかないです!!
ってことで次は8ヶ月かけて復帰を果たしました。
チャイナートへは最終段階のリハビリをしながらトライアウトって形で練習参加をして、そこで2017年後期から契約してくれる流れになりました!
突然のタイリーグ終了
2016
チャイナートは僕が加入する前期に10連敗以上していて、がっつり降格権にいました。
なので僕の使命はチャイナートを一部に残留させること!でした。
僕が加入してからチームの調子は上がっていき、勝ったり、負け試合のような試合も引き分けに持って行けたりとかなり流れが良くなりました。
そして残り2試合、あと1勝すれば降格は免れそうな感じはある!
って矢先に・・・
前国王のタイのシンボル的存在でもあったプミポン国王が亡くなられました。
これはタイ王国にとってはとんでもない出来事で、もはやリーグをやってるどころではない。ってことでそのままリーグ戦も終了になりました。
残り2試合・・・残留の可能性も残したまま、そのままの順位が反映されてチャイナートは降格となってしまいました。
致し方ないですが、何かスッキリしない感じでシーズンおわっちゃったなーという感じです。。
そのタイミングで僕は契約満了となり、
タイを離れる決意をしました。
チーム探し
2017
次はオーストラリアでプレーすることになるんですが、
そこからすんなりチームが決まった訳でもないし、むしろ今回もたまたま過ぎました。
本当はヨーロッパでプレーしてみたかったので、とりあえずどこか練習参加行けないかなーと思い、ドイツへ行きました!
はっきりいうてアテは何もないが、事前にお願いしてた人から練習参加の許可が出ればすぐ行けるようにと先に飛びました。
ドイツ、オーストリア、スペイン、フィンランド・・・
トータル約20日間滞在しましたが、その間にしたことは知り合いの日本人の人と会ったのと観光だけでした。笑
あとスペインでは人生初のカンプノウでクラシコ観戦!!!
チケット8万円くらいした記憶が・・・笑
しかし今、そこにいるなら今!行くしかないなと!
メッシ、イニエスタ、スアレス、ロナウド、ベンゼマ、マルセロ・・・メンツがスーパー過ぎました!!(2016)
あとはドイツでシャルケの試合観戦もしたし、オーストリアでは内田篤人の長ーい膝の怪我からの復帰戦もみました。
しかし、私のスーツケースからスパイクを出して履くことは一度もなく終わりました。笑
練習参加すら行けないならチャンスは無いなとヨーロッパは諦めて、どこかないかなーと。
東南アジアはどこもタイと似たり寄ったりやろうから刺激も少なそうし、違う国が良いなーと。
一度日本へ戻って、フラフラ東京へ遊びがてらアマチュアサッカーにも参加させて頂きました。
そこで今矢直樹さんと出会いました。
たまたま一緒にサッカーをして、そのあとそこのチームメンバーとカフェ行った時にオーストラリアのエージェントをしてると!
そこから話はトントン拍子で進んでいき、
気付いたらオーストラリア・シドニーに降り立っていました。笑
イラワラプレミアリーグ、ダプトFCと契約
2017
シドニーに着いてすんなり契約出来た訳ではないです。
むしろもうこれ決まらんかったらヤバイってとこまで追い込まれましたが、なんとも良いタイミングで声をかけてくれたクラブがあり、そこに練習参加したのちに契約出来ました。
それがイラワラプレミアリーグのダプトFCというクラブ。
ウーロンゴンという地域リーグで、シドニーからは車で2時間位かかる場所です。
セミプロリーグで練習は週2回(火・木)で土日の週末に試合って感じです!
なので週3サッカー、週4オフ!
最高やないか!ってね。笑
実は以前にオーストラリア(ブリスベン)には観光で来た事があって、そこでプレーしてた友達(伊藤和也)からある程度の話は聞いていたので、それを踏まえた上でのオーストラリア挑戦でした。
最後ギリギリで契約出来た訳ですが、おそらく当時では異例とも言えるくらいの給料を出してくれたので、サッカーだけで最低限の生活は出来るくらいの給料はありました。
ローカルオーストラリア選手達や他の日本人選手の多くは基本的には仕事をしながらサッカーをするって感じです。
俺はもう働きたくないんだ!by 辛いJFL時代を経て。笑
なんとも有難い契約内容で今矢さんの存在も大きかったです。
そして2017 シーズン
イラワラリーグは3位でフィニッシュ。
イラワラリーグ 前期ベストイレブンに選ばれ、それなりに存在感はアピール出来たシーズンだったかな。
イチゴファームで4ヶ月生活
2017-2018
オーストラリアへはワーキングホリデービザで行っていました。
オーストラリアは政府指定のファームジョブを90日以上行えば、セカンドワーホリと呼ばれる2年目のワーキングホリデービザを出してくれます。
サッカーもシーズン中の約半年間しか給料が出ないってこともあり、何よりファームジョブって絶対おもろいやん!ってことで初めから行くと決めてました。
実はリーグの5位以内に入れば、グランドファイナルって大会で、そこで本当の一番を決める勝負トーナメントがあります。
しかしそれに出てしまうと、ファーム90日の計算が合わずに次のシーズンに影響が出るので、そのグランドファイナルは出ないと言うて、ファームに行きました。笑
ダプトはこの試合を勝てば決勝!って試合で負けてしまいました。(僕はすでにファーム先)
もし決勝に進んでいたら、僕の飛行機代も準備するから出てくれと言われてました。
チームには勝って欲しい反面、勝ったら行かなあかんしなかなかキツイぞーなんて思いながら、過ごしていましたね。笑
そこからは地獄のイチゴファーム生活!!
10人くらいのシェアハウス、3人のタコ部屋。
朝5時に家出発、6時収穫スタート→ひたすら収穫作業→終わり次第終了(17時とか)
それをほぼ毎日!!
そしてわたくしはそこから走ったり筋トレしたり・・・
激務だ。笑
ただ僕が行ったファーム先は天気が悪かったりで、なかなか仕事がない日があったり、ある日気温が下がり過ぎて氷が降ってイチゴが全滅・・・
なんてこともあって、もうそうなったらファームの危機なんです。
全部狩る作業、植える作業に切り替わったり、
それらも出来高性やからやった分が給料に。
半端なく腰を痛めました。。
ただそのおかげでフリーな日もちょいちょいあって、ボール一つで、素人の友達とボール蹴ったり、走ったり走ったり走ったりして、他の人に合わすことなくひたすらやってました。
そんな強すぎるメンタルと、お金にも多少の余裕があるわたくしと、若くて、お金もギリでメンタルも弱い人達とはなかなか合わんよな。笑
休みが多いことを理由にファームを出て行く人がいたり、逆に残った人達とは観光に行って遊んだり。笑
そんなことをしてたら最短で3ヶ月で取れるところを4ヶ月間かかっちゃいました。
なんやかんや無事にセカンドワーホリビザ取得!
ファーム生活は一生に一回の経験やろし、めちゃ良い経験になりました。
皆さんにもおすすめしたいです!
オーストラリア2年目
2018
さて、そうこうしてる間に1月になりました。
この時期、そろそろ次のチームを見付けないといけない。
しっかり2年目のワーホリビザも降りたので、シドニーに戻って来ました。
が、家もないのでどないしようかと思ってたら、
メルボルンのチームに練習参加行けると!
よし!それは行くしかない!ってことで、荷物車に全部詰め込んでトータル20時間以上の運転かな?!
ブリスベン→シドニー→メルボルン
3日くらいかけて車で行きました。笑
4ヶ月くらいまともにサッカーしてませんが、僕はリハビリで何ヶ月もボール蹴ってない時期もあるし、感覚ってのはそうそう忘れるもんではないと自信がありました。
あとはコンディションですが、そこら辺はうまく誤魔化しながらやるしかない。笑
約2週間練習参加して、選手達からは非常に評価してくれていつ契約するんだ?!っていつも言うてくれてましたが、
一番権限のある監督がイエスとは言わずに、結局契約は出来ませんでした。
まぁ僕のプレーは好き嫌いが分かれるかなって自己分析もあるし、例えばわざとあけてるポジションを、いや!そこ埋めろよ!って言う人とは全く合わん。笑
致し方なし。
再び集結
2018
去年いたチームに戻れへんの?って思うかもですが、
実はダプトは前年シーズンでクラブが消滅してしまいました。
ただ、そのスタッフやら多くの選手が別の同じクラブに移籍してました。
そのクラブがメルボルンでカップ戦を行うから、トライアルで参加してみないか?と連絡をもらいました。
わたくし今、メルボルンいるやん!笑
ちょうどのタイミング、しかも2週間練習参加したあとだったのでそれなりにコンディションも戻っていた。
そこでいきなりゴールを決めて勝利!!
契約!!笑
イラワラリーグ、ウーロンゴン・ユナイテッド
2018
本音をいえば、オーストラリア2年目はシドニー以外の地域でプレーしたかった。
しかし、そのチャンスも逃したし、去年中途半端な形でチームを去って優勝も出来なかったし、もう一度チームは変わったけど去年と同じスタッフや選手が多く所属してるウーロンゴン・ユナイテッドでプレーして優勝したいなと!
しかし・・・リーグ戦は思うような結果を残せず5位やったかな。
しかーし、グランドファイナルの大会の方が何故か価値が高いのがオーストラリアリーグの特徴!
そこで優勝するぞー!!って駒を進めて望んだ決勝戦!!
後半ロスタイムに失点して2−3で終了。。
この試合1ゴール1アシストで存在感は出せたけど、欲しいのはチームとしての結果でした。。
2018シーズン 年間ベスト選手にノミネートされ、最後の2人に残るも、選ばれず。。やはり結果が必要だったな。
後にイラワラプレミアリーグベストジャパニーズプレーヤー10に選んでくれたり、それなりにこの地でも残せたかなとは思う。
ちなみにタイでは後に、歴代アジア外国人選手10にも選出してくれました。
32歳でJリーグデビュー
2019
オーストラリアは元々VISAの関係もあり2年だけと決めていました。
とりあえず最後は観光しまくって、全州回りました。
思い残すことは全くなく、一旦日本へ戻りました。
ていうのも、やっぱりJリーグでプレーしたい!!
とずっと心の隅にありました。
それを実現させようとJリーグ挑戦を掲げました。
10月末頃に日本へ戻り、そこからチーム探しの為の宿泊や移動費等の費用の為の、クラウドファンディングも立ち上げて、トータル20万円くらいの支援もして頂けました。
そして結局練習参加に行けたのは、2チームだけでしたが、
その一つのJ3 いわてグルージャ盛岡と契約させて頂きました!!
念願のJリーガー!!
本当にチャンスを与えてくれたグルージャには感謝しかないです!
久々(7年ぶり)の日本でのプレーやし、東北の岩手県ってのも寒い雪国の地域で自分にとってはすごい新しい体験で刺激的でした。
水道が凍るからって水抜き作業とか初めて知りましたね。笑
そして、遂にリーグ戦、岩手ホームゲームの途中出場で32歳でJリーグデビューを果たしました。
元Jリーガーです!と胸を張って言えます。笑
今出来ること
2019
実はいわてグルージャでは公式戦5試合くらいしか出場してません。
ただコンディションは人生で一番良かったんじゃないかと思うくらい良かったです。
前十字靭帯からオーストラリアでまったり復帰して、日本での練習ははじめはキツかったですが、次第に慣れて来て特に怪我もなくシーズンを終えました。
5試合しか出てへんなら、何をしてたんだ?!ってなりますが、
岩手観光ですね。笑
日本の場合はサブ組の為に練習試合も組んでくれたりするんですが、アウェイ遠征のメンバー外の時とかはオフだったりするので、結構時間と体力がありました。笑
日本で2番目に広い岩手県なので、片道2時間くらいかけてでも、ほぼほぼ全市町村の観光名所巡った気がします。
岩手は温泉や山(特に岩手山は見事)、東側は海にも面してるし(海女ちゃんとかも)、雪の壁や、桜、寺、世界遺産3つ(龍泉洞、平泉(中尊寺など)、渋すぎる橋野鉄鉱山)
そしてどの地域の人もみんな暖かい!!
最高の生活でした!!!
ただ、それはそれとして・・・
もう一つやろうと思っていた、資格取得にも挑戦しました。
・スポーツフードアドバイザー
・野菜ソムリエ
・コーヒーソムリエ
・カフェオーナー経営士
1年間でこの4つの資格を取得しました。
あとは盛岡のツタヤ(コーヒーや食事注文で)書店の本が読み放題だったので、毎日通って本を読みました。
正確には分かりませんが、40冊くらいは読んだんじゃないかな。
それと、いわて所属のGK土井康平と共にアパレルブランド
VEVARASANA を立ち上げて、ネットやいわぎんスタジアムでの販売もさせて頂きました。
サッカーはサッカーで全力で、それ以外のことも、今出来ることにフォーカスしてやり切った1年間でした。
契約満了からのタイ
2020
いわてグルージャ盛岡は、新しいオーナーが参入するってことでクラブも一新されました。
そもそも僕が所属した2019年シーズンはJ3で最下位だったし、僕自身も試合にほとんど出てないので契約満了は妥当かなと。
そこから、自身の立ち位置を客観的にみて、これ以上Jクラブでプレーするのは難しいかなと。
33歳、J3最下位、試合に出てない。
これは現実を受け止めないとね。
てことで、基本的にはJリーガーしか受けることの出来ない、
Jリーグトライアウトに参加しました。
まぁあわよくばって気持ちもありましたが、8割記念出場ですね。(怒られるか。笑)
本音を言えば、もう一年Jリーグってやりたかった気持ちはありましたが、そこまでアホでもないので、切り替えです。
で、Jトライアウトが終わった次の日にタイへ飛びました。
チョンブリFCに復帰
2020
タイへ飛んだのは、チョンブリFCのダイレクターであったビタヤに連絡したら練習参加しても良いよーって。
軽い。笑
僕の思いとしては、実はチョンブリと契約する為の練習ではなく、他の国(主に東南アジア)へ挑戦する為の準備って感じでした。
もうタイは6年間プレーしてたし、別の国でプレーしたいなって。
しかし、なかなか他の国への練習参加の話もなく・・・
そうこうしてる内に、チョンブリFCと契約出来るような話にもなってきました。
もしこのまま他の国へ練習参加へも行けない状況なら、チョンブリFCでもう一度プレーするのはありかなと。
恩もあるし、何よりすごい良いクラブやしね!!
そして裏の考えとしては、タイ1部チョンブリFCの経歴を作れば、次に他の国への移籍もプラスに働くという思いもありました。
てことで2020年シーズン、
再びチョンブリFCでプレーさせて頂きました。
以前に比べると勢いも、選手も若手主体で上位に食い込めるような感じでは無かったですが、その中でも若手選手への刺激とチームの勝利を求めながらを意識してプレーしました。
サポーターもすごい歓迎してくれて、本当に良い環境でした。
新型コロナウイルスで中断
2020
2021年、もうこれは全世界の大問題なので、どうしようもないですがタイリーグも当然ながら影響を受けました。
4試合を終えた時点で、3月頃からリーグ戦中断。
グラウンドで練習も禁止ってことで、ひたすらチームでZoomトレーニングでした。
週3回を約3ヶ月くらい続けてたかな。
1人で空き地でボールを蹴ることは出来たので僕はこの期間に、
リフティング1万回を達成しました。
約1時間40分、落とさずにひたすらリフティングするという・・・
もう一生やらない挑戦だと思います。笑
僕のリフティング最高記録は1万回です!
と今後一生言えます。笑
そしてVEVARASANA Thailandもタイで製造、販売もさせて頂きました。
その後、トータル300枚を売り上げ、というか皆様に買って頂き非常に感謝です!
リーグ戦再開からの契約満了
2020
3月から中断してたリーグ戦はようやく9月頃に再開しました。
前期の5試合目から再スタート。
チョンブリFCは勝ったり負けたりを繰り返し中位くらいを彷徨ってたかな。
実は前期上位4位以内に入ればACL出場の可能性もあったので、個人的にはそれを目指してましたが、まぁチーム状況を考えても難しかったかなと。
そんなイマイチパッしない流れもありました。
そこで契約満了
2020
2020年12月。
ここで一旦リーグ戦前期が終了しました。
僕自身はここまでが契約期間だったので、そのタイミングで契約満了になりました。
というかチョンブリFCの外国人5人全員入れ替えたという・・・
もうそれで色々察してください。笑
本来タイリーグは前期と後期の間の外国人選手の入れ替えは2人までとかなんですが、今シーズンはあまりにイレギュラーなシーズンで外国人5人、タイ人5人選手の入れ替えが可能でした。
はっきりいうて10人も入れ替えれたらチームが変わります。笑
ちなみに前期4試合以降にも、選手の入れ替えが可能だったので、シーズンスタートしてからめちゃめちゃ変わってるチームもあります。1シーズン・・・なんやそれって感じですね。笑
ここからの未来
2021
僕自身はそもそも本音の部分はタイでプレーしたかった訳ではないので、このタイミングでの契約満了は二つ返事でオッケーでした。
まぁチョンブリの選手達は昔から知ってる選手も多いので若干の寂しさはありますけども、それもサッカーの世界の一部ですかね。
僕は現在34歳です。
2021、2022年までは現役でプレーした気持ちはあります。
ウガンダへサッカートライアルチャレンジ
2021年6月
前クラブと契約満了になってから約半年。
チャンスが巡ってきました。
その地はアフリカのウガンダ🇺🇬
この時期コロナの影響が少なく、日本渡航前PCR検査の陰性証明書があれば入国が可能だったウガンダ(現地の隔離期間も無し)。
ウガンダにはソルティーロブライトスターズという本田圭佑選手がオーナーを務めるクラブが存在します。
ウガンダプレミアリーグ(1部リーグ)です。
そこに繋がりがあり、練習参加(トライアル)させて頂ける話を頂き、当然全額自腹で渡航しました。
アフリカへ降り立つのは初めてでしたが、東アフリカのウガンダは治安が良い方で、良い国だとは聞いていました。
日本から約30時間で降り立ったエンテベ国際空港🛩
実際、特に怖さも感じず、事前に連絡していたクラブスタッフの方に迎えにきてもらって今回お世話になる家へと送迎してもらいました。
ウガンダ2日目
この日から練習参加しました。
練習は朝(だいたい8時半〜)
日本との時差も−6時間
気候は暑すぎず、寒すぎずでちょうど良い感じですが、平均標高1200mのウガンダは少し空気が薄い印象。
そんな中の練習初日🇺🇬⚽️
ウォーミングアップ→練習→・・・・・
いきなり練習試合がはじまりました。笑
えっ!?全然聞いてない😂
後半の45分に出場させてもらえました!
もうやるしかない。
というかむしろやれて良かったです。
これがウガンダでの練習参加の始まりでした。笑
ウガンダ、ロックダウン
6月に入ってからウガンダでは1日1000人を超えるコロナの感染者数が増えてきてました。
なかなか歯止めが効かず、6月19日ついに政府は(ほぼ)ロックダウンを宣言しました。
期間は42日間。スポーツ分野の活動も禁止になり、残り3節だったウガンダプレミアリーグも実質終了になる流れになりました。。
ウガンダに入国して9日目の出来事でした。
なので、ソルティーロブライトスターズの練習に参加した日数は実質5日(回)くらいです。(公式戦やオフもあり)
思い返せば、あの練習試合に出てて本当に良かったです。
それがないと、基本的にはリーグ戦に向けた練習調整だったのでアピールする時間も本当に限られてました。
それでもアピール期間があまりに短いですが・・・
僕の経験上、1ヶ月間トライアルをしても契約できない時は出来ないし、逆に1日のプレーだけで契約書にサインってこともよくある。
結局、運と実力とタイミング!!
この要素が大きく占めると思います。
クラウドファンディング
ウガンダのサッカーリーグはプロなんですが、そのマーケットは非常に小さく、給料も一般の人らと変わらないほどみたいです。
当然クラブにより差はありますが、高価な外国人選手を雇うほどの予算はどこのクラブも無いみたいです。
あともう一つは、外国人を雇うということはウガンダ人の雇用を奪うということにも繋がるので、外国人選手がほぼいないのはそういう側面も少なからずあるかもしれません。
経済的にも発展途上でそこまでの余裕がない印象も受けます。
もし仮に自分がウガンダでプレー出来るってなっても現地プレーヤーと同じくらいの給料になりえます。
正直それは日本人の良い環境で育った自分には厳しいです。
やはり海外で良いパフォーマンスを継続して出す為の第一歩は、ストレスの無い生活環境を整える!です。
これは僕は海外経験が長いからわかります。
初めはローカル飯、あまり揃ってない住居なんかでも全然いけると思いがちですが、1シーズンを通して見たら、おそらく途中でダメになります。
なので!!
ウガンダで最低限生活出来るであろう、
1ヶ月10万円!!
トータル100万円!!!
を目標にクラウドファンディングを実施しました。
✴︎100万円達成
ウガンダの人々
練習参加したソルティーロブライトスターズのスタッフや選手達もみんなめちゃめちゃ親切にしてくれました。
ウガンダ人!って一括りにするのも微妙ですが、僕が出会ったウガンダ人はみんな良い人でした!
陽気で優しいです😁
あと子供達は、擦れてない笑顔を振りまいて、
ムズング!(肌の白い外国人的な)バーイ👋
なんて言うてきます。
貧しい人達はiPhoneでネットやYouTubeも見れないし、身の回りの限られた情報しかないかもです。
ただ、それが良いのか、悪いのかって判断は誰にも出来ないね。
ウガンダの子供達の全く擦れてない笑顔見たら本当にそう思いますよ😊
2021-2022 ウガンダ
ソルティーロブライトスターズでプレー
ウガンダがロックダウンしてる7月はケニアに1ヶ月滞在していました。その間にクラブとの話し合いも経て、契約できる流れになりました。順番で言えば、その後にクラファンを始めて、100万円の目標も達成出来たので、僕自身もプレーすることに決めました。
8月中旬から練習が再開して合流しました。
ウガンダプレミアリーグの開幕は10月15日に決まり、それに向けて準備をしていきました。
タンザニアVISAの旅
9月に一旦観光VISAが切れるので、ウガンダ国外へ出ることに。
ちなみにウガンダリーグでプレーするにはワーキングパミットVISAが必要です。
そんなに簡単に取れるVISAではないらしく、しかしこの時点で申請すらも出来てなかったので、取れる取れない以前の問題。笑
てことで隣国のタンザニア・首都ダルエスサラームに行きました。
この国はコロナには寛容な国で強制隔離も無かったし、町の人達の半数はマスクもしてなかったですね。
そしてタクシーで襲われる
もちろんトレーニングも継続(っていうてもジムやビーチランなど)してましたが、せっかくなら観光もしないとなと。笑
前日に予約したタクシー(そこら辺に歩いてた人と約束)して、当日の朝7時に時間通りに来て、タクシーに乗り込んでしばらく走ったら3人乗り込んできて・・・
ちょっと裏路地ってぽいところに車で連れてかれて、現金とアップルウォッチ等、(携帯、ミラーレス一眼は無事)を取られました。
少し抵抗もしましたが、3人がかりでナイフは持ってなかったですが、ナイフあるから殺すぞと言われて、死ぬのは嫌やから抵抗もやめて奪われるがままに。
後から思い出すと、もっかい見つけにいってやり返したいわ!
やらんけど。
めいれい : いのちだいじに
とはいえ、タンザニアは少しばかり発展していて、海も近くて素晴らしかったです!!
しっかり注意さえしてれば、良い国だと思います!
2021年シーズン開幕
2021年10月15日
遂にウガンダプレミアリーグが開幕しました〜!!
一方クシダはというと、未だにワークパミットVISAが申請出来ておらず・・・出場できるのはいつになることやらって感じで過ごしていました。
そんなこんなで3試合が消化して、チームは3連敗スタート・・・
ワーキングパミットVISA取得
チームは開幕から3連敗・・・
早くクシダを出せるようにしたい!と、クラブも本気で動いてくれて、なんと!!
通常では考えられないスピードで取得できました。笑
本当にありがとう!!
そして、取得した次の日がリーグ第4節。
正直、チーム練習でもクシダは出れない程で紅白戦とかもあまり入れずでしたが当日メンバーには入れてくれました!
ベンチでサブスタート
まさかの?あやうく?ウガンダリーグデビュー!?
第4節のホームゲームにベンチ入りしたクシダは、
いつ出してくれるのかな〜と戦況を見つめていました。
しかし試合は拮抗しておりスコアは1−1のまま、替えるタイミングも難しい展開ではありました。
(ていうのも僕はまだ公式戦には出たことないしリスクがあると考えられても仕方はない)
アディショナルタイム3分の表示。
チームは1-1で自分は出番なしか〜と思った時・・・
なんと!クシダ行くぞ!と名前を呼ばれました。
残り時間おそらく1分
内心、ホームゲームやのにこんな時間稼ぎの使われ方でデビューはイヤだ!!と思いながら渋々交代する為にピッチのラインへ。
副審はすでに14番(クシダ)を準備している。
そこでファールによりFK!
おい!!よりによって試合を止めるプレーをするな〜と思いながら
そこで試合終了の笛!!!!
1-1の引き分けで全然良くはないけど、試合終わって内心めちゃめちゃ良かったと思った、デビュー戦ならずのお話でした。笑
当面の目標と今後の人生
ようやく出場出来る準備は整ったので、あとはやるだけです。
ウガンダでサッカー選手としてプレーして、日本人選手としての価値を高め、リーグベスト11なんてのも狙っていきたい。
他にも厳しい環境でプレーする選手達に何か出来ること(例えばスパイクの支援やスポンサー獲得)をしていきたい。
大きく描く今後は・・・
現役を引退して、一年くらいかけて世界一周をします。
行きたいところがいっぱいあるし、人生のうちでそんな時間はそのタイミングしかないのではないかとも思っています。
そういう意味でも今シーズンはしっかりとサッカーをやり切りたい。
その後は農業の世界で勝負したいなーとも漠然と思い描いています。
それを言えば、2億円くらい貯めてリタイヤしたいとも思っています。
それが今後の人生プラン。
まぁ先のことなんて分からんし、またここから自分自身の歴史を積み重ねていきたいと思います。
死ぬまでが人生ですね!
いつ死んでも後悔がないように日々を過ごしていきたいです。
大事なのは常に今!!
人生は続く・・・


右は渡邉将基でのちにJリーグ入りする男。
真ん中はサッカーのイロハを教えてくれた恩師。





後ろ、大久保剛志(ソニー仙台)のちにタイで再会、対戦することに





















































警備員は常に銃警備。
安全の基準



このスタジアムはまさかの・・・







バイクヤバ過ぎ

観光で。

震災前やから今はどんな感じなんでしょうか。

だいぶ印象深い旅でした。


さすが世界一






めちゃ綺麗でした



千と千尋の神隠し

AFCカップの試合で。





ACLプレーオフ、一発勝負で北京国安と対戦

試合は0ー4で敗戦。

太陽が出てるけど見えない






これが組めるくらい日本人選手がいたし評価されていた時代。


世界の子供達にサッカーボールを届ける

タイ人はいつも協力的で優しい






ふざけてキャプテンマーク巻いてる





二回目の前十字靭帯手術in京都

そんな対応ありますか?!とびっくりとしっかり復帰しないとなと。




豆知識としては州によってコアラが抱っこできないところがあります。
これはブリスベンの動物園。

オーストラリアは良い国です





もう移動が無茶苦茶


子供達の試合のサポート






宮沢悠生は桂高校の一つ上の先輩



ELで内田篤人の1年9カ月ぶりの復帰戦を生観戦。




毎試合5〜6万人観戦者数は痺れる。
しかも熱狂シャルケファンが埋め尽くすスタジアムは圧巻でした。














個人的に世界で一番可愛い動物と思っている。




ジャカランタ

坂の多いシドニー近郊をトレーニングがてらチャリで。
配達遅い!と何回か怒られる。チャリやししゃーない。
あと電話での英語は全然分からん。

1ゴール1アシストするも・・・


(左)関谷祐
3人でシドニーで多数イベント開催した
現在もワールドフットボーラーズの活動継続中




おそらく今はもう登れない?!

オーストラリアの中に勝手に国を作っちゃた場所。
パスポートスタンプもあります(政府非公認)





クイーンズランド州

スラムダンクのオープニング

盛岡、岩手は最高の生活でした。寒いけど。

たろし滝






J3いわてグルージャ盛岡




つなぎから見える景色

ワンコそば、どれだけ食えるか

腹120%


どう感じ、どう生きるか

最高の1年でした
岩手ええとこやなーと思えた1年間でした。




コープンカップ

櫛田自伝
著者:櫛田一斗